瀬戸 伶
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World Wide Weblog
アレゲとはなにか
2008-06-25 Wed 23:53
スラッシュドット・ジャパンなどで見る言葉の、“アレゲ”って何?、というのを聞かれることがある。

回答としては、ウィキペディアのここであったり、Hatenaのこれが良い説明になっていると思うのだけれども、勝手ながら私見の考察をちょっと加えてみたい。

“それっぽい”という言葉を聞いたりすることはないだろうか?
強引に説明するとすれば、ちょっと“その筋ぽい”、“玄人ぽい”、とか車関係で言えば“エンスーぽい”とか、“マニアっぽい”とか、漠然と肯定の方向を示すような言葉だ。

また、これと似た言葉で、“あれっぽい”というのもある。
こちらは、逆に、漠然と悪い方向の意味を表すことが多い。ユーザーを小馬鹿にしたり、なめた姿勢で作られた製品や、サービスに向けられる言葉でもある。

“それ”が肯定的で、“あれ”が否定的なのは、なぜかと言われると詰まってしまうが、言語感覚としては、そういったふうになる。あくまで感覚である。

これらを“け”(気)で、言うとしたら、“それ気”、であり、“あれ気”といった言葉になる。スラッシュドット・ジャパンの“アレゲ”とは、まさにこれだと思っている。

言語感覚といったものは個人差も大きいので、誰もが同じものを掴み取るとは思わないけれども、それでも意外と共通性はあるものだと思っている。であるから、詩や俳句、文学なども成り立つのだろうし、言葉の流行なども起こるのだろう。

“アレゲ”の補完説明になっただろうか?


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外来語の表記と発音のしかたの違い
2008-06-22 Sun 00:02
外来語を表記するというのは、そもそもが日本語に無い発音を、日本語風に無理に直して表すということなので難しい部分がある。多くは、もともと日本語には無い音なので、聞こえ方は人によって様々であるし、表記の仕方も違ってしまうのは当たり前のことだろう。

また、昔の“メリケン”は、現代の表記では“アメリカン”になったりと、時代で変わってきたりもするようだ。この場合、原語により近いのは、“メリケン”の方だと思うのだけれども、どうしてリアリズムから形式的なものに変わって行くのだろうか。


こんな状況であるので、技術的な用語については、ある程度は標準的な書き方を決めてしまおう、とか、統一した方が良いだろうということで規格化されることになる。

最近は、コンピュータ、サーバ、ユーザなどと、長音を伸ばさない表記をすることが多くなっているけれど、これはJIS規格に“規格票の様式”というのがあって、その中に、“その言葉が3音以上の場合には、語尾に長音符号を付けない。 エレベータ(elevator) ”などという規格があるからだ。(このJIS規格には他にも様々なルールがある)

メーカーなどが仕様書や、マニュアルなどを作る際には、この規格(JIS)にそって作るので、これらの言葉の表記については、長音を省いたものとなり、世の中に浸透してゆくわけだ。


しかし、読み方については変わらない。

つまり、“コンピュータ”の読みは、“こんぴゅーたー”、であるし、“ユーザ”の読みは“ゆーざー”だ。 これを文字通りに、“こんぴゅーた”や、“ゆーざ”と読んではいけない。 これは、“てふてふ”をそのまま、“テフテフ”と読むがごとく、はずかしい。

たまに居るのだ。“さーば”とか、“ゆーざ”とか言う人が。 それであれば、いっそのこと“鯖”とかの方が良いだろうと、個人的には思う。


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天皇をエンペラーと呼ぶわけ
2008-06-01 Sun 22:26
中学で英語を習い始め、暫くしてから英語では天皇をエンペラーと呼ぶということを知った。その後英語をもっと知るようになって、なぜ、天皇はエンペラーと呼ばれるのかが、とても気になるようになった。なぜKingでもなくEmperorなのか。当時の英語の先生や、ネイティブなどにも、何故そうなのかを聞いてみたけれども、結局はっきりとした事は分らなかった。

その後社会人となり、本当にずいぶんと時間がたったころ、ある日とつぜんその答えを見つけた。それがこの本だ。 一外交官の見た明治維新〈上〉 - アーネスト・サトウ - (岩波文庫)

この本は、1862年(文久2年)の幕末から明治維新にかけて6年半、また生涯では25年間、日本に滞在した英国の外交官、アーネスト・サトウ(英語名のSatow、彼は英国人)が、彼の詳細な日記を元に書いた当時の記録だ。幕末から明治維新にかけては、ドラマや映画や小説でよく取り上げられる馴染みのある時代であるけれども、その時代に日本に滞在し、実際に外交交渉を行っていた外国人の目から見たリアルな記録だ。この本は幕末から明治維新に少しでも興味のある人には強くお勧めする。これは絶対に面白い(書評参照のこと)。

読み進めて行くと、上巻205ページにこうあるのを見つけた。

英文では大君{タイクーン}の場合は“His Majesty”(陛下)の敬称が用いられて、わがイギリス女王と同格におかれていた。しかし、日本語の訳文では、これは「ハイネス」と同意義の「殿下」となっているので、大君{タイクーン}とイギリスの女王を同格とすれば、イギリスの元首は天皇{ミカド}よりも下位に経つことになるわけだ。


日本側は、大君(将軍)とイギリス女王を同格にあつかったので、天皇と女王を比べた場合では、天皇の方が上位になってしまい問題となるということだ。これは当初は外国側に、日本の主権者が将軍ではなく天皇であることの理解がなかったことや、日本側(幕府)が外国元首を常に将軍の下位に位置づける画策を行ったりで生じことだ。

続いてこうある。

のみならず“queen”という言葉は、天皇{ミカド}の曾孫にあたる女性の称号と同じ「女王」という言葉に訳されていた。そこで私は、日本語の新しい訳語をつくることを提案した。そして、その案では“Majesty”にそれ相当のふさわしい日本語の同義語をあて、“Queen”の方はコーテイ(皇帝)という訳語を用いるというのであった。皇帝という語は、すべてのシナ・英語辞典には普通“Emperor”と訳されており、実際上「至上の君主」を意味し、男女の両性にあてはまるのである。


つまり、中国語から、皇帝(Emperor)という日本語の新しい訳語を作ることでこうしたのだった。

Queen = 皇帝、同格 Emperor = 天皇
下格 His Majesty = 大君

そして、

それが採用されて、公式に用いられるようになった。そして、それは、天皇{ミカド}を日本の君主と認め、大君{タイクーン}をその代行者と認めるという新しい政策の基調となったのである。


天皇に対するエンペラーという訳語は、英国人外交官のSir Ernest Mason Satowが考え出したのだった。1966年とある。

それにしてもこの本は面白い。




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揚げ足を取るについて
2008-05-24 Sat 22:19
“揚げ足を取る”とは“議論の中で、本質的では無い部分での用語や定義の誤り、修辞的な誤りなど、主に言葉の誤りについて、あげつらい、攻撃をすること”と考えている。

揚げ足を取っての攻撃は、攻撃する者が“誤り”は議論の目的の本質的な部分でないことを承知していないと、効果的には行えないものだ。攻撃者は本筋と関係が無いことを承知の上で攻撃をしているのだから、これは議論の目的からすれば矛盾することになる。攻撃のための攻撃、議論のための議論ということだ。

ゆえに揚げ足取りは、アンフェアで、不毛な、非建設的な行いと思っている。


相手に言葉の誤用があった場合は、受け手が自分の解釈の幅を広げることで、勝手に吸収しさえすれば良い。または攻撃するのではなく、直接確認して、ずれを調整すれば済むことだ。

実社会の会議では、あからさまに揚げ足をとることは少ないと思うが、ネット上では良く見かける。掲示板など、場所に依って居酒屋の雑談的な趣もあるところならば理解できる。しかし、他人のブログのコメント欄で、第三者同士が場所もわきまえずにこういった行いをするなどというのは、甚だみっともない事であろう。



大辞泉によれば、揚げ足を取るの定義は、
“《技を掛けようとした相手の足を取って倒すところから》人の言いまちがいや言葉じりをとらえて非難したり、からかったりすること。”、とのことだ。


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顔が悪いのは仕方ないけれど
2008-05-21 Wed 10:13
言うまでも無い事であるけれども、顔が悪いのは、ある意味しかたがない。流行り廃りもあるので、時代が変わって、社会が変われば違った見方をされるこももあるかもしれない。しかし、これも個性であるし、いずれにしても自分でコントロールするのは困難なことだろう。

それに比べれば、顔つきが悪い、というのは自分次第でどうにでもなる。これはフィジカルなものでなく、その人の心や、姿勢を表すものだ。それが、顔つきの良さ、悪さに出る。この場合の“顔”は人に対する、自分のディスプレイの仕方だ。すべては自分の責任ということになる。


個体を見分けるための“顔”と、人を見分けるための“顔”の違い。

人は、この違いというものを、ちゃんと分っている。
これは人間にとってはプリミティブなもので、生まれながらに、無意識に判断している。小さな子供でも、顔の良し悪しは分らなくとも、顔つきの良し悪しの判断はつくものだ。

顔のよろしくない人達。
イケメン度において劣ろうとも、悲観することはない。モテ度で決め手となるのは、結局は“顔つき”のほうだ。
自信を持って良い顔つきになろう。


顔が悪いのは仕方ないけれど…の追伸
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約束とコミットメントの違いはなにか
2008-05-14 Wed 10:15
コミットメントとは約束の意味であるけれども、欧米での“コミットメント”と“約束”は、ニュアンスにおいてかなり異なっている。“やくそく”は普通の約束だ。それに比べると、“コミットメント”は絶対に破ってはいけない約束になる。

コミットしたものを守れなかった場合には、有形、無形の大きな代償を支払わなければならない。コミットメントは日本語では、“言質(げんち)を与える”という言葉になるが、これは“武士に二言は無い”と言ったときの武士の約束と考えてもらえば分りやすいかもしれない。

武士は約束をして守れなかった場合は人の命に関わる。なので、二言があった場合、名誉と引き換えに支払う代償は自分の命だ。武士は軽々しく約束(コミット)はしなかった。そうでなければ、命が幾つあっても足りなかっただろう。

コミットするということは、そういった責任を求められるということだ。


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「バグを憎んで、人を憎まず」
2008-05-13 Tue 10:16
この言葉はIT業界ではとてもよく知られていて、一般社会のことわざで言ったなら“時は金なり”ぐらいに古典的なものだと思う。

“バグ”とはコンピュータープログラムの不具合のことであるけれど、早い話が、プログラマーの誰かが人為的にミスったということだ。そのミス一つで、システムはとんでもないことになって、関係者一同は修羅場を迎えることになる。

この言葉は、そんな時でも、“ミスをしたプログラマーを責めてはならない”、ホトケの心をもって“バグそのものを憎むべし”、というありがたい言葉だ。

実際にも、そんな修羅場を迎えてから、誰のミスだ、誰が悪いの言っても始まらない。関係者全員一丸となって、とりあえず問題の解決を図るのが第一だ。
こんな時、良いリーダーに率いられたチームは、異様な一体感と、高揚感に包まれ、普段では考えられないような力を出したりする。 “よし、俺たちで、地球を救ってやる”といった乗りなのだ。
ある意味、苦しくとも物を作り出すという、この仕事の醍醐味を感じられる時でもある。

「バグを憎んで、人を憎まず」
これは、IT業界の名言の一つだろう。


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ここがロードス島だ、ここで跳べ!の出典
2008-05-05 Mon 21:50
ブログタイトル、“ここがロードス島だ、ここで跳べ!”の出典は、イソップ寓話だ。

それは、こんな話だ。

法螺吹(ほらふき)
国ではいつも、もっと男らしくやれ、とケチをつけられていた五種競技の選手が、ある時海外遠征に出て、暫くぶりで戻ってくると、大言壮語して、あちこちの国で勇名をはせたが、殊にロドス島では、オリンピア競技祭の優勝者でさえ届かぬ程のジャンプをしてやった、と語った。もしもロドスへ出かけることがあれば、競技場に居合わせた人が証人になってくれよう、とつけ加えると、その場の一人が遮って言うには、

「おい、そこの兄さん、それが本当なら、証人はいらない。ここがロドスだ、さあ跳んでみろ」
事実による証明が手近にある時は、言葉は要らない、ということをこの話は説き明かしている。

     − イソップ寓話集 中務哲郎 訳 (岩波文庫) −

訳者でもある中務哲郎教授(京都大学 西洋古典学)の巻末解説によれば、この話は「ミュンヒェンのバイエルン国立図書館の所蔵になるAugustanus Monacensis 564と呼ばれる写本を代表とする諸写本に含まれる231話でイソップ寓話集の中核をなす」、ものの中の一話だそうだ。

また、この「ミュンヘン写本564」は13,4世紀のものであるが、その祖本は1,2世紀に遡るかと考えられ、それは更にアリストテレスの孫弟子にあたる、デメトリオス(前350年頃-280年頃)の「イソップ集成」に連なるかとも想像されている、ともある。
これが散文によるイソップ集成の源流でないかと言われているそうだ。

イソップ物語として知られている話の中でも、もっとも古いものの一つで、源流らしい。

私は子供のころに、学校の教科書でこの話を読んだ記憶がある。
それが、ずっと頭の片隅に残っていて、社会人になってからも時々思い出されていた。
このブログを始めるにあたって、自分への戒めも込めて、タイトルとさせてもらった。

「その気になったら簡単だ」、「条件が揃えばちゃんと出来る」、、「自分が本気を出せば他愛もないさ」、二千年以上の時がたっても、人は変わっていない。でも、そういうことはその時代から、みっともなく、恥ずかしいことだった、ということは救いだと思う。


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正規表現という訳語が分らない
2008-05-03 Sat 10:26
正規表現とは、ITの世界ではデータの検索や置換の際に用いる、検索文字列の表記のしかた、または、その検索パターンのことを言う。

しかし、“正規表現”という名前では、何のことなのか、よく分からないのではないか。

英語では、レギュラーエクスプレッション(regular expression)であるのだけれど、これを日本語に訳したときに、誤訳に近い問題が生じたのだと思う。レギュラーということばを、野球チームの、レギュラー選手の意味合いで、そのまま、“正規”と訳したのだろう。この“正”という文字によって、意味が離れて行ってしまう。

“正しい表現”、“正しい規則の表現”とは、どういう意味であるか?


ここでいう“レギュラー”とは、“規則的な”という意味だ。または“系統立った”という意味合いが近いかもしれない。つまりは、レギュラーエクスプレッションとは、(パターンマッチングのための)“規則的な表現”(方法)という意味だ。

日本語とするならば、“規則化表現”と言うか、もっと崩すのであれば、“規則化パターン表現”などが適当だろうと思う。

あまり出来の良い訳とはいえないが、少なくとも“正規表現”よりはましだと思っている。


正規表現という訳語が分らない…の追伸
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三十にして立ち、四十にして惑わず、は孔子の自伝だ
2007-11-25 Sun 22:03
論語の中の言葉で、“三十にして立つ”、“四十にして惑わず”、“五十にして天命を知る”というのがあるけれども、これは孔子が自分はそうであった、と弟子に語っている言葉だ。

あくまでも、孔子が自分はそうであったと。


今もその言葉が語り継がれる、2,500年前の賢人が、自分の場合はそうだったと言っているのだ。
私のような普通人だったら、それよりも、10年、20年人間としての成長が遅かろうとも、許されるだろう。

20年遅れで追いつけたら立派なものだ。。。と思うことにしている。


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